「ロータリーの友」掲載分

宮崎西クラブ関係「友」掲載分

APR.2006 VOL.54 NO.4
地区のたより『友』地区委員

NO.64 2006
Rotary Should Be More Enjoyable

Feb. 2006VOL.54 NO.02
ロータリアンに聞きました/もっと楽しく 宮崎西RC 長崎 秀峰

私はロータリークラブに入会して2年弱と日も浅く、また三十路の若輩者で、知識経験共に豊かな諸先輩方からご指導いただいている身で恐縮ですが、これからのロータリーについて述べさせていただきます。
 ロータリークラブは今までもそうだと思いますが、これからも会員にとって「楽しい」クラブでなければならないと思います。「楽しい」ということは、会員増強、退会防止だけでなく、各奉仕活動においても大きな力になると思います。100年経過した今、ポール・ハリスがロータリーを創立した当時の目的を思い起こし、親睦をあらためて見直してより一層充実させ、ロータリアンみんなが笑顔で奉仕を行えるような環境づくりが、次の100年につながっていくと思います。
 「楽しい」ことは継続され、その継続は力となり、その力でもって奉仕する。それに喜びを見いだせるようになればすばらしいと思います。極端に言えば「楽しいかどうか!」だと思います。

(第2730地区 宮崎県)

Oct. 2005VOL.53 NO.10
ロータリーアットワーク/ロータリー研修会 宮崎西RC 田崎博俊

わがクラブでは情報委員会主催で、「ロータリー研修会」を実施している。入会ニ年未満の会員は義務出席、そのほかの会員は自由出席。従来はベテラン会員が大量の資料を配り講義していたが、なぜか今回は、CICO(Club Internet Communication Officer)である私が講師を任された。
 大量に資料をもらっても読み返すことはないと考え、資料は配布しないで、「おもしろロータリー集」としてプレゼンテーション形式で実施。一つでも心に残ってくれればそれで十分と考え、まず、私が入会した当時の話から始めた。私の推薦者、喜島健一郎会員は一年間、例会で隣に座り、わからない用語が登場するたびに耳打ちして意味を教えてくれたものだ。しかし、今はわからない用語があれば、『ロータリーの友』などのホームページなどが参考になる、と紹介した。
 次に、「自分は〇〇年間無欠席だ」という会員がいるが、この会員は、例会出席を苦痛に感じているのではないだろうか。出席は義務だというが、私は例会出席は権利だと考えている。何しろロータリアンでなければ出席できないのだから。例えば、出張時に一人で昼を食べるくらいなら、メークアップする。初めて会う仲間とも仲良くなれるし、貴重な卓話も聞くことができる。クラブや地区を超えて仲間が増えることは大きな財産だと説明し、「ただし、メークアップを事前連絡しないと、弁当が足りなくてSAA(会場監督)が犠牲になるからネ」と補足した。ベテラン会員からは煙たがられたかもしれないが、新入会員は大喜びの研修会だった。

June.2002 VOL.50 NO.7
私の宝物/ワンちゃんが13歳で天国へ 宮崎西RC 田崎博俊(メール投稿第一号記事)

息子と双子のようにして育ったクッキーが13歳で天国に旅だった。息子の記録でもあるクッキーの一生をとミニアルバムにした。

June.2002 VOL.50 NO.6
新世代のページ/目指すは県大会優勝 宮崎西RC

宮崎西RCでは、児童擁護施設青島学園の野球チームのメンバーにユニホームを寄贈。同園の野球部メンバーは13人で、児童擁護施設野球県大会などに出場している。

Mar.2002 VOL.50 NO.3
談話室/ホテルフェニックス35年の歴史に幕 宮崎西 田崎博俊

シーガイヤグループの第一号ホテルとして、1966(昭和41)年にオープンした宮崎市の「ホテルフェニックス」が昨年10月末に閉館、35年の歴史に幕を閉じた。同ホテルの歴史は同時に宮崎西RCの歴史でもある。
 1960(昭和)35年に産声をあげた当クラブは、1967(昭和42)年にホテルフェニックスを新たな例会場と定めた。その後34年間、当クラブは同ホテルと苦楽を共にしてきた。フェニックスでの最後の例会は夜間例会とし、クラブとホテルを知り尽くしている橋本善吉会員がプレズマディズプレーを用いて、当クラブと同ホテルの歴史を解説した。
 私にとっても思いでの多いホテルである。父は初代会長で宮崎西RCをこよなく愛していた。子供の時から、父に連れられて年末家族会に来ていたホテルである。

Dec.2000 VOL.48 NO.12
談話室/周年記念式典をCD-ROMで 宮崎西RC 田崎博俊(メール投稿第一号記事)

去る四月七日、宮崎西クラブ創立40周年記念式典を開催した。会員は正装に蝶ネクタイ、演出、進行役は、すべて身内で行った。
元TBSの長友会員の司会をはじめ会員ばセミプロぞろいなので、グストの皆さんは驚いていた。こんな雰囲気のクラブで40周年記念のCD-R0M作成の話が待ち上がった。業者に依頼すると業者はロータリーを知らないので打ち合わせに時間がかかり、費用もかかる。この際、CD-R0Mも会員だけで作ってみようということになった。まず、各クラプのWebページを中心にネットサーフィンから始めた。人間、目的がないと、なかなか実行しないが、今回は徹底的に見せていただいた。実にいろいろなページがあり、とても勉強になった。このCD-R0Mの原本作成に約一力月がかかり、複製を300枚作った。複製は単純作業だが、機械から離れられないので疲れる作業であった。結局、一枚200円弱でできた。なんとか完成させたCD-R0Mを楽しんでほしい。また、今までキーボードにもマウスにも触れたことはないが、このCD-R0Mを見るためパソコンに触ろうと思う人がいたら、製作担当者として、こんなうれしいことはない。RIもインターネットの利用を勧めている。どうかパソコンで遊んでほしい。きっと未知の世界が見えてくると思う。
(第2730地区・宮崎県・薬剤師)

May.2000 VOL.48 NO.5
卓話の泉/医薬分業 薬剤師 田崎博俊

医薬分業の目的は、処方内容の公開、物と技術の分離、医師と薬剤師のダブルチェック、薬剤適正使用の推進、服薬指導、薬歴管理ということです。
 医薬分業は、13世紀にヨーロッパで成立し、ほとんどの先進国ではもう採用されています。一見、不便な方法がどうして世界中に普及したのでしょうか?
 医師は処方をし、薬剤師が調剤をすることは、司法、立法、行政の三つが分立しているのと同じことです。1240年に、神聖ローマ帝国のフリードリッヒⅡ世は、医師が薬室を持つことを禁じました。これが医薬分業の起源と言われています。
 当時は激しい権力争いの時代で、薬物による暗殺事件が多発していました。診断・投薬・死亡診断書を一人の医師がすべてできるというのは、暗殺につながるということで禁止されたわけです。処方は医師に、調剤は薬剤師に分離して、事件の防止を図りました。
 日本でも明治七(1874)年にこの制度は導入されているのですが、東洋医学の歴史と伝統を持つ日本では、薬は医師からもらうのが習慣であり定着しませんでした。GHQは戦後、医師が薬を、歯科医師が金を、薬剤師が化粧品と雑貨を売っていたことに驚き、医薬分業を実施するよう、政府に勧告しました。これを受けて、昭和26(1951)年に『医薬分業法』は成立したものの、強制分業は実現しませんでした。
 将来の医薬分業の姿は、患者は家の近くにかかりつけの薬局を持ち、どの医療機関の処方せんもそこへ持参、一般薬もそこで購入するという体制が望ましいと思います。これなら、医薬品の組み合わせによる副作用事故も防げます。
 そして、今は「おくすり手帳」のような形でも、将来は、ICカードによるチェックが確実でしょう。

(宮崎県・宮崎西RC会員)

May.1999 VOL.47 NO.5
バングラデシュに診療所を

宮崎県 宮崎西 延岡中央(D2730)では、さきごろバングラデシュで進めていた診療所が完成。竹内三郎PGを団長にRAを含む関係者28人が現地を訪れ、開所式に参加した。

Oct.1998 VOL.46 NO.10
RAC認証状伝達式/宮崎西

4月22日、多くの関係者参加のもと、地区内26番目に誕生した宮崎西フェニックス・オーシャンRACの認証状伝達式が開催された。当日出席していた堂本光生氏(宮崎西RC会員)が、若者たちの人気アイドル堂本光一の父親であることが分かると、若い新アクターたちに取り囲まれた。

(第2730地区 宮崎県・宮崎市)

Dec.1997 VOL.45 NO.12
会長が六〇歳で大学へ 宮崎西 田崎博俊

当クラブは第38代会長・前田暢俊君の点鐘で新年度がスタートした。彼は、この春に慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科に入学した学生会長である。
 設計会社の社長である彼は、景観を壊してまでも建築する近代的な建物に反発を感じていたという。もう一度ゼロからスタートしてみようと思い、昨年秋に軽い気持ちで大学院の入学試験を受けた。一次試験に合格し、二次試験は面接だった。カルチャースクールでは年下の先生から教わることがあっても、大学では先生の方が年上というのが一般的だと思う。面接教授が、自分よりも年上で60才の彼を入学させるわけはないと思っていた。ところが研究者の世界しか知らない教授達は、実務経験豊富な建築家の熱弁に「なるほど」と納得させられ、感心して顎が上下に動いてしまった。彼はみごとに合格したのである。
 入学はしたものの、記憶力の衰えには驚くばかりで、若者の3倍は時間をかけて勉強しないと追いつけないと彼は言う。それに、いきなりマルチメディアと言われても、キーボードにのせた指が動かないとボヤク。
 同じ大学院に通う彼の娘は彼の先輩、親子で仲良くキャンパスに通っている。
 そういう訳で、毎週、宮崎と東京を飛行機で往復し、会長と学業の両立を図っている彼だが、一年の留年は覚悟しているもよう。
 関東地区のプログラム委員の皆様、ぜひ前田学生会長を例会卓話者に招待してほしい。

 (第2730地区・宮崎県・薬剤師)

Aug.1997 VOL.45 NO.8
健康ひとくちメモ 宮崎西 村上四朗

六時半起床。約四五分神様に報恩感謝のお祈り。三食かかさず、週に三日の休肝日、そしてエイジシューターに向かってまい進中。

(宮崎県 建築 六三歳)

June1997 VOL.45 NO.6
今からでも遅くはない 宮崎西 喜島健一郎

自分の常識で人を見てはいけないと、つくづく思う。世の中には自分の常識の範囲を、はるかに超えた不思議な人がいるものだ。
 わがクラブの田崎博俊君を紹介したい。彼は昭和48年、東京理科大学を卒業し伊藤忠に入社、昭和55年に退職、郷里宮崎で薬局を開業した。ここまでは、何の変哲もない普通の人で、これからが彼の不思議な人生の始まりである。昭和58年、心機一転、第一薬科大学に再入学、同62年に卒業し、37歳で薬剤師になる。同年9月宮崎西RCに入会、その後、宮崎医科大学薬理学教室に通い、平成8年、47歳で薬学博士になる。この間、勉強ばかりしていたわけではない。NECのTK-80というマイコンの虜になった。このまま続けていればハドソンの会長やマイクロソフト社の西和彦氏のようになったと思う。残念ながら彼はパソコンの他、手品、エレクトーン、機械いじりなどに熱中してしまう。しかしすべてが相当なレベルにある。現在、雑誌委員長の彼は『友』のレビュー集を毎月作成し。『友』の配布前に会員に渡し、また、これをインターネットのホームページに載せているので覗いてほしい。
 趣味の一つである東京ディズニーランドに関しては、最近一冊の本にまとめた。テーマパークに対する彼の見解は相当なもので、フェニックスリゾートの新入社員教育の講師も務めている。彼は恐らく私の五倍のスピードで人生を生きている。一日は等しく24時間しか与えられていないのに、人はこんなにも仕事ができるのだろうか。今からでも遅くはない。仕事もできるし、約束も果たせる。

 (第2730地区・宮崎県・薬局)

No.44 1996
THE ROTARY-NO-TOMO Congratulation Keiko Kono Hirotoshi Tazaki(Miyazaki Nishi)

Miyazaki’s five Rotary clubs work together in the sending and receiving of exchange students.
Keiko Kono, who recently married the grand champion sumo wresler, Takanohana, was once a Rotary exchange student. When Keiko was in her second year at Miyazaki Omiya High School she went to the U.S. for one year, to attend school in Oneonta, New York.
Her father, Hideo, says she was quite confident of her abilities in English before she left, but once she got there, she couldn’t understand anything and couldn’t make herself understood. The father of the first host family she stayed with was a college professor and the mother was an elementary school teacher. The mother used problems from third elementary tests to reteach Keiko. She also made thorough corrections in her pronunciation.
After she got back to Japan and graduated from higt school, Keiko majored in French at Sophia University. She then got a job at Fuji Television, became an announcer and then a member of Fuji’s international news team stationed in Paris. Remember, she got her start as Rotary exchange student.
Keiko’s father is judicial scrivener and a member of the Rotary Club of Miyazaki. Rotary can consider itself proud to have played a small part in the marriage of Keiko and Takanohana.

APR.1995 VOL.43 NO.12
おめでとう河野景子さん 宮崎西 田崎博俊

宮崎市内のRCでは、協力しあって交換学生の受け入れと送り出しを行ってきました。
 実は、さきごろ、貴乃花関と結婚した河野景子さんもロータリーの交換学生でした。景子さんは宮崎大宮高校二年のとき、交換学生として、アメリカ・ニューヨーク州オネオンタハイスクールへ一年間留学しました。
 お父様に聞きましたところ、景子さんは、ある程度、英語に自信を持ってアメリカに行きましたが、現地では英語が通じなくて困ったそうです。最初のホストファミリーのご主人は大学の先生で、奥様が小学校の先生だったそうです。この奥様が小学校三年生のテスト問題で景子さんを鍛えてくれ、発音も徹底的に直してくれたとのことでした。
 帰国後、高校を卒業した景子さんは、上智大学でフランス語を学びました。フジテレビアナウンサー時代は、パリ支局に駐在していた国際派です。このスタートはロータリーの交換学生としての留学にあったようです。
 お父様の河野日出男(司法書士)さんも、現在、宮崎RCの会員です。今回の結婚の結び付きはロータリーにあったのかもしれません。

 (第2730地区・宮崎県・薬剤師)

APR.1995 VOL.43 NO.10
つながった青森~鹿児島・宮崎 第2730地区『友』委員 田崎博俊(宮崎西)

九州縦断自動車道は、福岡県、佐賀県、熊本県を通り、えびの市で分岐して鹿児島に至る鹿児島線と、宮崎市に向かう宮崎線から成り立っている。
 この分岐点、人吉-えびの間が7月27日に開通し、青森県から鹿児島県、宮崎県まで日本列島を縦断する高速縦断道が完成した。名神高速道が開通して32年目にして、やっと第2730地区(鹿児島・宮崎)の毛細血管が中央の大動脈と結ばれた。
 九州中央山地を越える難所の克服には、路線発表から約九年の歳月を要した。特に大量のゆう水に見舞われて工事が難航を極めた加久藤トンネルは、貫通に三年八カ月を費やし南九州の「天の岩戸開き」とまで言われた。
 開通に先立ち、いろいろな記念行事が行われた。まず、新トンネル内を走るハイウェーマラソンには、全国から5300人が参加し、旭化成の谷口浩美選手とともに、ふだんは走れないコースで健脚を競いあった。また、えびの市と青森県八戸市のカップルの結婚式が行われ、夜には青森・ねぶた、秋田・竿灯を含めた列島南北の祭が集合した「夏祭り」もあり、2150キロを結ぶ高速道の完成を祝った。
 この完成によって、第2730地区と全国各都市間の利便生が大幅に高まり、産業・経済の発展、文化のより一層の交流が図られることになりそうだ。

APR.1994 VOL.42 NO.4
盲導犬を贈呈 宮崎西(第2730地区)

さきごろ、クラブの「社会奉仕基金運営委員会」が、先天盲の鎌田正子さんに盲導犬デイジー号(雌2歳)を贈呈、社会参加の手助けをした。民間では県内で初めて。

JAN.1994 VOL.42 NO.1
私の卓話と島津PG 宮崎西 田崎博俊

宮崎にいて東京ディズニーランドの年間パスポートを持つほどのテーマ・パーク大好き人間の私は九月十日の例会で「客からみたシーガイヤ」のタイトルで卓話をさせていただいた。
 卓話といえば、六年前の入会時の原稿棒読みを皮切りに、今回までに何度か機会を与えていただいた。自分の卓話はすべてテープに録音している。今では原稿は各項目のタイトルだけにしている。六年前から比べると朗読調からだいぶん「話しことば」になってはきたが、まだまだ間の取り方、強調すべきところとさっと流すところなど課題の多いのに気がつく。また、会員卓話はスタート時間に関係なく終わりの時間はピタリと合わせなければならない。それにしても会員歴の長い人の話しの上手なのには感心させられる。ロータリーで経験を積ませていただき、聞き手が飽きない話し方を勉強していこうと思う。
 今回、都城RCの島津PGが当クラブにメークアップされ、私の卓話を聞いてくださった。実は38年ほど前、島津PGと私は謡曲でご一緒させていただいたことがある。写真の前列三人のうち向かって右端が島津PG、左端が私(六歳)。今、こういう形でお会いでき、しかも卓話を聞いていただくなんて夢のようだ。横社会を原則とするロータリーのありがたさを実感した次第。(第2730地区・宮崎県・薬剤師)

OCT.1993 VOL.41 NO.10
カーンさんへ研究助成金 宮崎西 田崎博俊

バングラデシュ出身で、宮崎医科大学大学院生のローナック・ファイジー・カーンさんに、宮崎西クラブから研究助成金を授与しました。
 カーンさんは、文部省の奨学金を得て、同医大で研究している夫とともに来日しましたが、本人もダッカ大学で生化学を専攻し、学位を取得しています。感染症で多くの人が死んでいる母国の現状をなんとかしたいと、がんばって宮医大の大学院を受験し、今春みごとに合格しました。夫と違って、私費留学生でもあり、この円高の中、月謝を払うのにも苦労しているとの話しを聞き、わがクラブで急きょ支援を決定しました。
 研究テーマは「ウイルスの薬剤耐性の分子生物学的解析」ですが、寄生虫学を研究している夫とともに母国に帰った後、必ず役に立つ研究をと最先端の研究以外の方法も学んでいるようです。

 (第2730地区・宮崎県・薬剤師)

MAY.1993 VOL.41 NO.5
ロータリークラブ定款に見る出席規定の移り変わり 宮崎西 田崎博俊

『友』1992年10月号32ページ「ロータリー問答」の例会休会とメークアップ期間で、菅野多利雄元RI理事が、「前回」は「前週」と、「次回」は「次週」を意味するものであると解釈することができると答えられていつのに対し、12月号(31)ページで、宮崎中央の日高正昭会員がfollowingは「次週」ではなく、やはり「次回」だと考えると反論されています。
 「前週」「次週」だと1970年の定款の「前後六日間」と同じ意味になります。上記の移り変わりを見ても、時代とともに穏やかな方向に変わりつつあり、やはり、「前回」「次回」と解釈するべきではないでしょうか。

 (薬剤師・43歳・会員歴5年・宮崎県)

NOV.1992 VOL.40 NO.11
ロータリー内と外 宮崎西 田崎博俊

 もう、10年以上前の話しになりますが、私は某商社に輸出部門に勤務していました。アメリカ・ノースカロライナ州の重役夫婦をお連れして名古屋方面を案内していたところ、この重役はロータリアンでメークアップをしたいので探してほしいといわれ、名古屋観光ホテルにお連れしました。私にも一緒に中に入るようにいわれ、恐るおそる会場に入りますと、当時の名古屋市立大学学長の故高木健太郎先生に出迎えていただき、私にも気軽に声をかけてくださいました。ロータリーを通じて、普通なら話しもできないような方とお会いできたわけです。この時依頼、私はロータリーにある種のあこがれを持っていました。
 今では、故郷に帰り、みずからが入会させてもらって5年目になります。先日、同じクラブの鈴木敏道さん、前田暢俊さんと三人で三泊五日のニューヨーク旅行をしてきました。三人とも丑年ですが、皆年齢が違います。つまり、三世代の”丑年トリオ”なのです。こんなに年の離れた三人が一緒に旅をできるなんて、ロータリーならではないでしょうか。時々、ゴルフにも誘っていただきますが、若い私のスコアーがいつも一番悪いのはどうしてでしょうか。『ロータリーの友』で紹介されている秘密兵器のクラブを購入しましたので、そのうちに勝てる時もくるだろうと、あまい期待を抱いています。
 会員になって、内部からみたロータリーは、職業、年齢の枠を越え上下関係のない、素晴しい親睦の場でした。先輩方のご指導を受けながら、自分でできる範囲の奉仕活動をしていきたいと思っています。

 (第2730地区 宮崎県 薬剤師)

NOV.1991 VOL.39 NO.11
ファイナルビジターに証明書 宮崎西 田崎博俊

宮崎西クラブでは、従来、年度始めのビジター第一号の会員に記念品を贈呈していたが、前年度はSAAの発案で、年度最後のビジターに記念品だけでなく、ファイナルビジター証明書を発行した。
 なにしろ最終例会開始時刻ぎりぎりまで、該当者が分からないので、ハンディーワープロを例会場に持ち込んで証明書を作成し、額に入れて差し上げるわけでテンテコ舞である。
 今回は宮崎クラブの待田洋君がファイナルビジターとなり、ユニークな証明書と記念品に大変喜ばれ、多額のハッピー(ニコニコ)をいただいた。

 (薬剤師・宮崎県)

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